「北の伝統野菜を守り育てよう」

札幌市農政部 三部 英二 部長

学習会三部英二部長 「種プロジェクト」では6月13日、札幌市農政部の三部英二部長を講師に招いた学習会を開きました。テーマは「北の伝統野菜」。タマネギの「札幌黄」、キャベツの「札幌大球」、イチゴの「サトホロ」など大都市・札幌でもその土地に根付いた野菜が栽培されています。その中でも最近、消費者の間で人気が高まってきた「札幌黄」を中心に講演要旨をまとめました。
(理事 安川 誠二)

 

札幌村がタマネギ発祥の地

北海道のタマネギは、明治4(1871)年、札幌村(現・東区)につくられた開拓使の札幌官園でアメリカから持ってきた種子を栽培したのが最初とされています。そして明治10(1877)年にクラーク博士の後任として札幌農学校に着任したブルックス博士が、札幌黄の原種といわれる「イエロー・グローブ・ダンバース」を持ってきたと言われています。

当時の大友堀、今の創成川をつくった大友亀太郎に開拓された札幌村は早くから入植が進み、札幌農学校からも比較的近かったことからブルックス博士が農家に作物の栽培指導していたことも多かったそうです。その結果、多くの農家がタマネギ栽培を始め、札幌村がタマネギ栽培の発祥の地となったのです。

そんな中で明治13(1880)年、札幌村の中村磯吉という農家が1ヘクタールの畑でタマネギ栽培に成功しました。東京で販売したものの見慣れない野菜ということで泣く泣く廃棄して帰ってきたそうです。その後、道内炭鉱の従業員用として、また他の野菜より長期保存ができることから、航海用としての需要が高まり少しずつ販路が広がってきました。

やがて同じ札幌村の武井惣蔵が明治16(1883)年、商人にタマネギ販売を委託することで商業的に成功を収めました。13年末に札幌・手宮間に鉄道が開通し、運送環境が整備されていたこともあって、タマネギ栽培は急速に拡大していきました。

「札幌黄」の名が文献に登場 

「イエロー・グローブ・ダンバース」導入後は、熱心な農家の努力で代々品種改良がされていたようで、採種する農家の好みによってタマネギの形や性質が異なり、坂野系、阿部系、黒川系、高木系などと生産者の名前が付いたりしながら、次第に今の「札幌黄」に近づいていったのです。

武井氏の成功から徐々にタマネギ栽培が広がり、開拓が進んで畑が開墾されていくと果樹からタマネギに転換する農家も増えました。そして明治27(1894)年の日清戦争を機に食糧増産を図ることなどから一気に拡大していきました。施肥方法や栽培管理の技術が向上し、収量も明治12(1879)年に10アールあたり1.5~2トンだったのが、明治38(1905)年には2倍近くの2.9トンまで増えました。

そんな中、明治35(1902)年にできた北海道農事試験場でのタマネギ研究も進み、39年に同試験場が発行した「北海道農事試験彙報」に「『イエロー・グローブ・ダンバース』なる原種が多年栽培の結果、本道の風土に馴化せるものとす」と「札幌黄」の名が文献に登場したのです。

その後「札幌黄」は本州だけでなく、ロシアやフィリピン、香港などに輸出され、中でもロシア沿海州は北海道から地理的にも近く冬の野菜不足が深刻だったことから昭和40年代まで輸出が続きました。しかし「札幌黄」は大玉が多かったものの、規格外や腐敗も多いという欠点があり、ほかの品種よりも貯蔵性が劣ることなどから次第に作付けする農家が減少しました。

地産地消で見直される「札幌黄」

さらに収量が多く栽培しやすいF1種(一代交配種)が登場したり、札幌の人口急増による農地の宅地化が進んだりしたことなどで、北海道のタマネギ主産地は北見市などオホーツク地方に取って代わられました。そのため札幌市内の「札幌黄」生産者も今では約10戸まで減ってしまいました。

でも最近、消費者の間で地元でとれた新鮮な農産物を率先して食べて、地域の農家を支える「地産地消」の動きが広がり、「札幌黄」も見直されてきています。市内に「札幌黄ブランド化推進協議会」も発足し、関係者が集まって「生産部会」「加工部会」「PR部会」とそれぞれの役割で、「札幌黄」の普及活動に当たっています。

「札幌黄」をはじめとする北海道の伝統野菜を、皆さんの暮らしの中で、また生活スタイルの中でいつまでも愛される野菜にしたいと思っています。「不易流行」で、時代を越えて生き続けてほしいと願っています。「昔こんな野菜があったよね」などと決して言われないようにしたい。そのためには食べ方などの新しい料理方法、斬新な加工品づくり、生産現場を気軽に訪れられるツアーなど、消費者の多様なニーズにも応えられるようにしたいと思っています。

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